詳細情報

なにくそ人生

北浦 冨太郎


価格 : ¥750 (税込み)

 昭和五十六年六月十九日。
 太陽鉄工の創業の父、北浦冨太郎は「物づくり一筋」の生涯を、静かに閉じました。
 明治、大正、昭和・・・と、十五才の時に大阪へ出て以来、六十七年間働きつづけての人生でしたが、よき人々との出会いに恵まれ、お力添えを項いたことに、感謝の日々を送る晩年でした。
 北御堂(津村別院)での社葬、各地の弔問受付所に、お越し項いたみなさまに心から感謝申上げます。
 この「なにくそ人生」は、亡くなる一年半程前から、後進の指標にでもなればと、永年の職業体験を基に本人自身が語りかけた語録集です。日本HR協会専務理事、当社監査役の山田宏氏に対談とまとめを引受けて項きました。昨年四月に語り終え、題名も決め、出版の日を心待ちにしながら、帰らぬ地へ旅立ってしまいました。その意味では文字通りの遺稿となりました。
 昨年十二月に、故人の遺志を生かすべく、財団法人油空圧機器技術振興財団が皆様のお蔭をもちまして発足の運びになりました。
 早くもめぐってまいりました一周忌にあたり、故人を偲ぶよすがとして、この語録を上梓することになりました。亡き故人の思い出として、いささかなりともお役に立てば幸せと存じます。

北浦公雄
(本書 序より抜粋)



目次


運命を拓いた人 大阪商工会議所  会頭 大和銀行 会長 古川 進
「なにくそ人生」の発刊に寄せて ダイキン工業株式会社  社長 山田 稔
いまこそ必要な「なにくそ」の魂 三洋電機株式会社  相談役 後藤清一

Ⅰ ものづくり・人づくり
太陽を社名とする
物を作るものの命
恥を知る
製造とは何か
若い間に現場を知れ
見て歩く
コツを摑め
技術者気質を貫け
勘は研ぎすませ
間違いのない男
臆せず注意する      ほか

Ⅱ北浦冨太郎八十年の歩み
  学びに一途のわが人生
窮乏のなかに意を決す
母の感化
まりつき歌
ヤンチャ坊主
漠然と商売にあこがれる
二十歳で働きに出る
主人に学ぶ
びくつかない
大阪へ行こう
故郷を出たものの
夜学を目指したが       ほか

Ⅲ「創業者としての父」
 受け継ぎたい仕事への一徹さ
明治人間の一徹さ
みんなが帰ってからが仕事
背中で教える
先手の経営
真面目に仕事をすることをわが社の伝統に

Ⅳ「幹部達のオジヤさん印象記」  血相を変えるとアメが出た ―頑固のなかにユーモラスな人柄―
冬でも汗を流して叱る
書類は一度でパスさせない
人心の機微をつく人柄
旅は地図と首っ引き
気にいらない決裁には逆さにハンを捺す

Ⅴ編集の思い出
涙で語られた「なにくそ人生」
―気骨ある明治男の経験則―

Ⅵ「なにくそ人生」
思い出のスナップ

Ⅶ北浦冨太郎 略年譜



著者について

北浦冨太郎
明治33年1月4日 兵庫県赤穂市に生まれる。
昭和 9年      大阪高等技術専修学校(現大阪大学工学部の前身)を卒業、日立造船株式会社、大阪機工株
             式会社で設計技術者を経て大阪市淀川区柴島で合同会社太陽鉄工所を創業し、社長に就任。
             大阪工業会の理事を勤める。
昭和20年      戦災により本社工場(海軍監督工場)を焼失、東淀川区相川町に移転する。
             自動車部品、油圧、空気圧機器、自動化機械、カンペコプレス、産業用ロボットを製造、販売。
昭和39年5月    一般社団法人日本油空圧工業会(現 日本フルードパワー工業会)監事、理事、関西支部長等
         を歴任する。全国に工場10、営業所43、海外はシカゴ、デュッセルドルフに現地法人をもつ。
昭和50年11月 勲四等瑞宝章を受勲
昭和53年 5月 太陽鉄工株式会社会長に就任
昭和56年6月19日  逝去
 同年基金1.8億円で 一般財団法人 油空圧機器技術振興財団(理事長 森山信吾)を設立する。現在は公益財団
法人となり、各大学に研究助成金、論文顕彰など(188名)を行っている。
 太陽鉄工株式会社は、現在株式会社TAIYOと名称変更。東証2部上場、売上高161億円、社員700人。



※本書は1982年に太陽鉄工株式会社より発行された『なにくそ人生』を元に制作しております。

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